1950−
ネオプレン・スリーブサポーターは理学療法士であり、認定アスレチックトレーナーであるG.E“ムース” デティによって発案されました。彼は当時 National Athletic Trainers Association(NATA) の現役メンバーの一人で1994年には National Athletic Trainers Association(NATA) の殿堂入りを果たしています。
“ムース” デティは1960年から1974年までNFLのフィラデルフィア・イーグルスのヘッドアスレチックトレーナーで、Professional Football Athletic Trainers Society (PFATS)のメンバーでもありました。1990年にはその功績を讃えられ賞を受賞しています。“ムース” デティは1974年にPROを設立し、ネオプレーンサポーターの製造、販売を始めました。彼は、商品デザイナーとして7つの特許を取得しています。
1950年半ばから1960年の始めにかけて、“ムース” デティは南カリフォルニアに住み、職に就き、よくベニスビーチの前を通っていました。ベニスビーチの一部では、ウエイトリフトをする人やボディービルダーがトレーニングを行っており、“Muscle Beach”と呼ばれていました。
ボディービルダー中には体のあらゆる箇所をトラックのタイヤ内部から取ってきたチューブを巻きつけている人もいました。その理由は、特定箇所を温めて燃焼、脂肪を追い出すためでした。
このころのプロスポーツチームは、遠征に専属トレーナーが帯同せず、ホームチームが相手チームにトレーナーを提供していました。“ムース” デティは、NFLのロサンジェルス・ラムズや、NBAのロサンジェルス・レイカーズのトレーナーとして活動していました。
彼はそこでベテラン選手が試合開始より早めに来て、膝に鎮痛剤を塗りこみ、その上にラップを巻きつけている姿をよく目にしていました。理由を尋ねてみると、鎮痛剤を塗りラップで巻くことで膝が温まり練習や試合の間、痛みや硬直を和らげてくれるという事でした。
1960−
フィラデルフィアに就いた初めの年(1960年)、シーズン中の選手たちが、寒さの中で練習を行い、ベテラン選手の多くが体をこわばらせ、膝の痛みを訴えるという現場に出くわせました。その際に、何種類もの鎮痛薬や巻く素材を試し、ひざを温めるのに早くて便利な方法を探しました。シーズンが終わり、南カリフォルニアにもどると、ビーチではダイビング用品が発達しスキューバダイビングが人気のスポーツになっていました。そこで初めて、ウエットスーツで体を覆っているダイバーを見ました。それは新しいストレッチ素材のネオプレーンラバーで作られており、スーツ内にできる薄い水の層が体を温めておいてくれるというものでした。その後、ネオプレーン素材について情報を収集し、シーズンオンでフィラデルフィアに戻る頃、やっと欲しかった情報を手に入れることができました。ネオプレーン素材はデラウェア州ウィルミントンにあるデュポン社製ということがわかり、デュポン社を訪れネオプレーン素材の特性についてエンジニアに話を聞きました。
ネオプレーン素材の製造特許を取っているのは、ヴァージニア州のベッドフォードにあるルバテックス社ということがわかりました。営業をフィラデルフィアに送ってもらい、サンプルとして、ネオプレーン素材を数枚もらいました。当時のサポーターは縫われてなく糊付けされているだけのものでした。“ムース” デティはカットし数枚を貼り合わせてスリーブサポーターをつくり選手の為に使用しました。これが、PROの始まりとなりました。
“ムース” デティがネオプレーン素材を試す中で、2つ分かった事がありました。ネオプレーン素材は体の保温に効果的だった事です。これは体に汗はかきますが、熱くなることで循環を促します。循環する事で痛みを和らげ、筋肉を温めしなやかにします。彼はまた原料の厚みによって体の暖かさを保つ時間の違いに気づきました。厚いほど保温が保たれました。
次に他の素材との違いについてですが、四方に伸ばせることです。ネオプレーン素材は全方面に向けて均一に伸び、装着している部分に一定の圧力を形成します。“ムース” デティは怪我した膝はいくらか腫れますがネオプレーン・スリーブサポーターを充てていると腫れが軽減されることに気づきました。熱の保持力により高められた循環機能に圧力が加わることで、分泌液を排出し、治癒効果を高めます。この2つが同時にできる素材は、ネオプレーン素材以外にありませんでした。
また、“ムース” デティはネオプレーン素材がフットボールの過酷さにはちょっと脆いことに気づきました。この素材は土が付きやすく切れ易いのです。解決法として片面にストレッチ素材をラミネートしスリーブの内側にはつるつるしたネオプレーン素材を残しました。たくさんの生地の中から四方にストレッチ出来るナイロン生地を見つけました。この生地に加えて継ぎ目を糊付けではなく彼の奥様のミシンを使って縫う事にし、更に強くする事が出来ました。
この時“ムース” デティはスリーブサポーターをイーグルスの選手の要望に応じて作っていました。
結果エルボースリーブサポーターとサイスリーブサポーターがシンプルな膝用スリーブサポーター以外に加わりました。サイズやパターンは“ムース” デティがオフシーズンに時間をかけて開発して行きました。
時間と共にイーグルスの選手は他のチームへトレードされていきました。彼らは自分のスリーブサポーターを持っていき他のチームのアスレチックトレーナーに見せました。また“ムース” デティは他のスリーブサポーターを作れるかと呼ばれることもありました。必要に応じて家のミシンを使っている事は言わずにすぐに製品を作りました。ルバテックス社へ素材を発注している際に、市場の需要に応えるのには限界があると感じ、湾岸警備隊に救助隊用のネオプレーンスーツを供給している業者を紹介してもらいました。“ムース” デティは彼らにあい、自分のパターンやデザインの技術を使い商品を作るという契約に合意しました。
野球やバスケットボールのプロチームのトレーナーの間に関心が広まり、彼らから要望がきました。ほどなく、大学のスポーツトレーナーにも広がりました。
1970年までには、彼の製品を製造する工場を設立しました。
1970−
全てのプロスポーツのトレーナーに広く使用されることで、整形外科医たちもその存在に気付いてきました。“ムース” デティは1970年代に多くのナショナルシンポジウムに出席し話しました。これらの場所で他のトレーナーや整形外科医と話をしました。医者は沢山の怪我の問題から沢山のアイデアを与えてくれました。
“ムース” デティは戻ってこれらの会話を元に商品を製作しサンプルをテスト用に送りました。これらの初期のデザインは膝の怪我に対して国際的な評判を得ました。
これらの商品の何点かはデザインと機能性でアメリカの特許を取得しています。
“ムース” デティは、自身の体調不良の為1974年にフィラデルフィア・イーグルスからリタイアしました。彼の子息であるジェリーが、大学院を卒業したばかりでしたが新しいPro Orthopedic 社の立ち上げの為に一時的に参加しました。それから常勤となり、1998年に会社を経営することになります。
“ムース” デティがプロモーションで自由に動けるようになるにつれて、発明についての関心が劇的に広がっていきました。1975年にラリー ガードナーがPHYSICIAN AND SPORTS MEDICINE magazineで掲載されたPRO膝サポーターに関しての記事を書きました。ラリー ガードナーはNFL ダラス・カーボイズのヘッドアスレチックトレーナーをやっており初めての スーパーボウルで優勝した時のトレーナーでした。彼はダラスを離れた後、 マイアミ・ドルフィンズでヘッドアスレチックトレーナーになりました。マイアミ・ドルフィンズは彼がいた間にスーパーボウルで優勝しました。ガードナーはドルフィンズを去り、新しいコンセプトをもつスポーツメディスン センターの取締役になりました。このセンターはその後の多くのセンターの見本となりました。ガードナーはその時代の最先端として扱われました。
記事の写しはこの歴史を表します。
この時からPROは世界から取引を要望され、ムトーは1975年に初めて連絡をとりました。
1976年初めに“ムース” デティはアトランタの整形外科医の会議でネオプレーン・スリーブサポーターを使用することによる医療的側面に関して話しました。
ある日の食事の後“ムース” デティはバージニア大学医学部のフランク マッキュー医師とヒューストン クリニックのジャック ヒューストン医師と膝蓋骨に関して話をしました。 2人は、その分野における有名な専門家で、当時彼らは膝蓋骨の脱臼について取り組んでいました。
会議から戻って来ると、“ムース” デティは新しいスリーブサポーターの設計を始めました、それは膝蓋骨の脱臼に効果のある物です。この結果PRO100Bが生まれました。特に横の支えがあることで決まった場所から膝蓋骨がずれるのを防ぎます。
ヒューストン医師とマッキュー医師はこれを膝蓋骨脱臼の治療に対する突破口であると認めました。デザインが急激に改良され、のちに特許を取るまでになりました。
1976年後半に NBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズのトレーナーは“ムース” デティにある問題の解決を見つけてもらいたくて連絡をしてきました。“ムース” デティは練習場に赴きトレーナーに会い、選手たちの抱える問題に関してみてきました。その選手は後にNBAでDr.Jと呼ばれるジュリアス アービングでした。彼は膝蓋骨の腱炎とその周りの筋に問題がありました。“ムース” デティはスリーブサポーターを膝蓋骨の動きに応じて調整できるようにシューパッドを付けました。Dr.Jは気に入り、NBAで活躍している期間のほとんどを使用しました。この商品はDr.Mと呼ばれ膝蓋骨をサポートするサポーターになりました。“ムース” デティのニックネームがムース(Moose)であり、ジュリアス アービングのニックネームがDr.Jであったため、Dr.Mと名付けられました。
膝蓋骨向けの180シリーズはDr.Mシリーズと呼ぶようになりました。
また、1976年に“ムース” デティはスーパープロのはさみを見つけました。これはテーピングのような厚い層や、トレーナーが使用するゴムも切れるはさみでした。1995年にプロと大学のトレーナーは別タイプのはさみをリクエストしてきました。重くなく、足や手用の特別で複雑な形にパッドが切れるようなはさみを必要としていました。
市場にはその当時そういったものが無く、PROは製造業者を見つけデザインし作りました。その結果がスーパープロ21シザーです。これはオリジナルのスーパープロ11と同じく人気があります。長年にわたり、少しの改良はあるものの両方とも作り続けています。2012年にProはスーパープロ11にくっつかないコーティングを施す方法を見つけました。これはあっという間にヒットしました。トレーナーが今まで使っていたはさみは、テープなどの粘着剤がはさみの刃に残っていきます。
トレーナーは使用を中止しはさみの刃を定期的にきれいにしないといけません。
ノンスティック コーティングのはさみはこの問題を解決しました。2015年にはスーパープロ21にもこのコーティングを施されています。
長きにわたって新しい商品がPROラインに加わってきました。目立った内容としては1979年にPROが男性向けにスポーツショーツを加えた事です。運動選手が抱える問題の1つ肉離れに関して、圧を加えていく方法を1年実験しました。“ムース” デティはフィラデルフィアにある女性用のショーツを作っている工場に赴き男性向けのショーツを作っていきました。正しい圧がくるように正しくフィットするように半年の時間をかけてパターンを作りました。これらの商品はスポーツ業界で初でした。現在コンプレッションウエアは普通に出回っておりますが、最初のオリジナル商品とはだいぶ違った物になっています。今日の商品は初めの物とは違ってサポート力が弱くなっています。スポーツでのヘルニアが増えるにつれて現在ではもっと圧の強い商品に戻る傾向があります。
1980−
1982年にプロ選手向けの痛みに対して使用するサポーターを一般向けにという強い要望がありました。これに応えてPROは小売り向けに子会社を作りました。これらの商品のレベルはプロ仕様ではない物です。シンプルかつそれほど高くない物を作りました。ですが、始めに決めた事はPROという名前を商品に付け、同じ品質を維持するという事でした。ですので、PROの小売モデルはPRO ロゴを付けプロ選手仕様と同じ原料を使用するが、デザインはシンプルな物になりました。今日、小売モデルはアメリカの700箇所以上のお店で見る事ができます。商品は品質が良く価格競争力のある商品になっています。
1983年PROはアメリカンフットボール用の薄いネオプレーングローブを紹介しています。このグローブは保温性がありボールをつかむグリップ力に優れています。“アークティック グローブ”はヒットしプロや大学の選手間で有名になりました。このグローブはボールをつかむグリップ力が強く、見る人によってはボールを扱う選手にとって優位になると見える程でした。数年後ルールが変わり結局このアークティック グローブは廃止されてしまいました。ですが他の人々に使用され、冬のアクティビティで多くの人が使っているのが見受けられます。
1984年PROはアスレチックトレーニングマーケット向けに開発したネオプレーン以外の商品を販売する子会社Super Proをスタートしました。この時に100%アロエベラからできた商品を紹介しました。クーリング用のマッサージローション、ホットローション、応急処置用のクリーム、モイスチャースキンローションです。アロエベラは新しい商品であり、これらの商品は大きな成功を収めました。その後段々と品質が低く安いアロエベラ商品が広まるにつれ、PROの品質のいいアロエ商品は売れなくなってきました。スーパープロのカタログの一部はこれらの商品が含まれています。
1984年の12月31日ニューヨークタイムズ新聞で大統領のジェラルド・フォードと ジミー・カーターに関しての記載がありました。
フォード大統領は大学時代にアメリカンフットボールをして受けた膝の古傷にホワイトハウスの医師が処方したProのニーサポーターを使用していたという事でした。カーター大統領はフォード大統領と夕食の際にご自身の膝の痛みのことを話しました。フォード大統領はホワイトハウスの医師と相談してみたらどうかと提案し、その医師はPROを呼びカーター大統領のサポーターを作るように指示しました。この事は新聞に記載されました。PROの電話はこの商品の問い合わせで数週間鳴り続けていました。
この時点でPROは考えていたより拡大していきました。昔は ペンシルバニア と コロラドにあるニュージャージーの小さい製造工場でした。Mr.デティは1ヶ所ですべての作業ができるのが1番では、と決心しました。彼は事業の為にスキルを持った技術者といい環境を探していました。その結果アリゾナのツーソンに会社を建てました。Mr.デティは製造工場の移転に伴って、事務所も移転することにしました。
1986年にProはツーソンに新しく本社を開設しました。オープニングは盛大でした。アリゾナ大学からフットボール、バスケ、野球、ソフトボールのコーチが訪れ、ツーソンの市長だけでなく市議会議員数名も出席しました。大学のチームドクターやメディカルスクールの医者達も訪れました。PROはそこで、ニーズに応えるには小さすぎると思えるまでそのオフィスに居ました。1995年に今日もある新しいオフィスに移転しました。現在、Proは製造、デザイン、販売をアリゾナのツーソンの飛行場近くの30,000フィート四方の面積のあるオフィスで行っています。
1989年の12月に PRO FOOTBALL ATHLETIC TRAINERの記事が出版されました。それは、the Professional Football Athletic Trainers Societyの出版物であり、“ムース” デティと息子のジェリーとマイクに関しての物です。
1990−
PROの拡大に際して“ムース” デティの長男 ジェリーがビジネスのすべての局面でサポートし一緒に働いていました。ジェリーは商品開発に携わり、トレーナーのニーズに応えました。ジェリーは6つの商品をデザインし、アメリカの特許を貰いました。これら長年にわたる努力の結果、ジェリーはathletic trainers societiesの名誉会員としてメンバーに迎い入れられました。ジェリーはNational Athletic Trainers Association(NATA)の出展者の中で初めての national meeting board of directorsの委員の席を持つ人物になりました。
彼は、National Athletic Trainers Association(NATA) における功績で1998年にNational Athletic Trainers Association(NATA)の名誉会員になりました。2010年にジェリーはNFLのチームトレーナーが対象のProfessional Football Athletic Trainers Society(PFATS)の名誉会員になりました。“ムース” デティはこの組織のメンバーであり、ジェリーが名誉会員になった事に関してとても誇りに思っています。
2000−
2000年にPROはホースプロダクト(馬用品)部門を設立しました。解剖学をベースに機能や生態を調べ、ジェリーは馬用のアンクルブレイスをデザインしました。デザインはとても独特なものでアメリカの特許を取っています。この商品はサポーターに関して素晴らしい打開案として歓迎されました。人用の素材からいくつか馬に対してのユニークな商品を開発しました。2013年にはジェリーの娘メーガンが引き継ぎ、ホースプロダクト部門のマーケティング責任者となりました。メーガンはアリゾナ大学でアニマルサイエンスの学位を取り卒業しています。
長年の間PROはアスレチックトレーナーのニーズに応えた商品を開発してきました。1976年から現在に至るまでPROは13もの特許をもち、それは30の商品に及んでいます。これらの商品の多くは現在も販売されています。ビジネスを始めてから今までの間、決まりごとがありました。PROは可能な限り高品質の商品を提供し販売するという事です。これは常に100%ネオプレーンを使用することに当てはまります。PROは厳しく品質管理にこだわります。PROというブランドはベストの品質という事と同じことと思っています。ですからPROはMLB、NBA、NHL、NFLだけでなく国内の多くの大学や高校と取引があるのです。トレーナーはいつも問題を抱えるとPROに最先端の解決法を望みます。今日多くのプロの選手は自分のスポーツに特化するにつれて新しい問題を抱えます。PROは常にこれら選手の個々の問題を聞きます。我々のカスタムサポーターはプロフェッショナルスポーツビジネス内での大きな割合を含みます。更にPROはオリンピックチームの為に14か国に商品を提供しており、21か国に商品を輸出しています。PROのもっとも古い販売先はムトーエンタープライズです。ムトーとプロは1975年から一緒に働いております。
2016年の6月にProはメリーランド州、ボルチモアで行われるNational Athletic Trainers Association(NATA)に出展します。
PROはNational Athletic Trainers Association(NATA)に出展し、この組織をサポートし49年になります。
ジェリーがNational Athletic Trainers Association(NATA)に出るようになってから41回目になります。これは出展者として最も多い回数になりました。PROを超える業者は2社しかありません。